自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』への道 パート1
子供の頃、国語の授業で作文を書かされるのが“超”苦手でした
しばらく思いつくまま自己紹介を書いています。『お前の自己紹介なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪
ちなみにこの記事を書くために探してみたら、小学校5年生の時の作文が見つかりました。お恥ずかしながらご披露します。
『東洋工業見学記』とあります。東洋工業(現在のマツダ)の工場見学をさせていただいた際の感想文ですね。原稿用紙で4枚のボリュームです。ちなみに『藤本克幸』は私のかつての苗字です。懐かしい。
冒頭の部分をご紹介します。
学校の校門から下へ下ってバスをまっていたらきました。バスガイドさんが、とてもおもしろかったです。呉の中をとおって、それからしばらくしたら、下うけ工場がありました。東洋工業につきました。しばらくまっていたら、案内のおじさんが、こられました。東洋大はしをわたった。
箇条書きのような駄文ですねぇ。語尾も『ですます調』が続くのに、最後だけは『わたった』と『である調』になっており統一されていません。リズム感が悪く、下手な文章の見本と言っても良さそうです。しかも最後の東洋大“はし”は、きちんと“橋”と漢字で書きたいものです。
いくら小学校5年生とは言え、これはちょっと情けないです(苦笑)そしてこの後もダラダラとやる気のない文章が続きます。読んでて赤面ものです。そして極めつけに最後の部分をご紹介します。
思ったこと、感じたこと 中は、とてもうるさかったです。決まった仕事をしていればいいのだから、かんたんだと思いました。
↑我ながら何て上から目線で失礼な文章なのでしょう(汗)見学させていただいた事に対する感謝の気持ちが全く感じられません。
工場見学の作文って、案内してくださった方のところに、先生のお礼状と一緒にコピーが送られたりするじゃないですか。もしそうだとすると、東洋工業さんにはとても失礼なことをしたものです。
時効とは言え冷や汗ものです(苦笑)
こんな調子で、作文は超苦手でした。そして作文嫌いはそのままずっと継続し、学生時代、そして社会人になっても相変わらずでした。
サラリーマン時代に受けたカルチャーショック
サラリーマンになったら『報告書』なるものを書く機会があります。ある時、私なりに考えて報告書を書いたところ、直属の上司からこう言われました。
『報告書というものは一目見て何が書いているか分かるようにしないとダメだ。まずは冒頭に結論を書け。そしてその結論に至った根拠を書け。それが社会人の文章というモノだ。』
真っ赤に添削された通りに直してみると、はるかに分かりやすい報告書になったので、悔しかったですけど、とても勉強になりました。
次の機会の話です。
前回の反省を生かして最初にバシッと“結論”を明記した報告書を作り、直属の上司のところに意気揚々と持っていきました。『これなら文句ないでしょ!』のノリでした。そうしたところ、
今度は私の想像をはるかに超えるコメントが返ってきたのです。
『結論が強すぎる。もうちょっとぼかした書き方にしておかないと、何か問題が生じた時に、他部署の人間からこの報告書を盾に突っ込まれたら、墓穴を掘るぞ。そうなったらお前は責任とれるのか?』『全文書き直し!』
まさにサラリーマンの世界の大人の事情というヤツを目の当たりにして、この時ばかりはマジで眩暈(めまい)がしそうになりました。そして改めてこう思いました。
『俺やっぱ文章書くの嫌いだわ~(涙)』
そんな私が文章を書くのが好きになったワケ
それは全く予期せぬ形でやってきました。下の写真がそのきっかけに関連しています。ちなみに私は前列右端です。今と比べて随分と若いですねぇ。
続く