新・快眠生活zzz

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』が徒然なるままに書きます。お店や取扱い商品のPRは基本的に一切なしです。

衰退産業を生き残る(その1)

今週、月曜から水曜にかけて大阪に出張してきました。


月曜日:羽毛の講習会
火曜日:快眠ひろばの会 本部会議
水曜日:大阪西川チェーン ブロック長会議

 

昼間は熱く語り合って、
夜はもれなく懇親会付きの3日間でした。

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自撮りデビューにつき、表情、アングル共にイマイチな点はご容赦ください

 

体力的には正直結構きついんですけど、それ以上に充実した3日間でした。
そして、向こうにいる時にはハイテンションで走り続ける分、
お店に戻った昨日(木曜日)は抜け殻のようにしんどく、
ブログを書く元気もありませんでした。(そして昨日の夜も地元で会合)

 

 

私たちの業界は・・・というよりも、
私の所属している業界内のコミュニティーは、
極めて横のつながり(=理念、想い、情報の共有という意味で)が強く、
こういった繋がりは、私にとって大きな財産です。

 

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私は10年前から、
このような用件でメインは大阪+その他の地域にほぼ毎月出張しています。

 

この点に関する私のスタンスやら考え・想いについて、
様々な観点から話を膨らませてみたいと思います。

 

 

 

以前、商業界 香川同友会の例会にて
講演させていただいた事があります。

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その際、主催者に講演原稿を事前にお渡ししたところ、
先方が私の講演に付けてくださったのが
タイトル『衰退産業を生き残る』
サブタイトル『外部(婿養子)の人間だからできた業態改革』
でした。
この時の講演のタイトルが、
そのまま今回の記事のタイトルになっているという次第です。



 

最初タイトルに『衰退産業』という言葉を見た時に、
一瞬『ムッ!』とした自分がいました。
でもすぐに『その通り』と思い直しました。

この辺りは
自分が自覚している欠点を
他人からピンポイントで指摘された時の感覚
に似ているかも知れません。

そしてしばらく間をおいて、
『上手いタイトル付けたなぁ』と妙に感心したものです。

 

そして改めて再認識したんです。
自分が今いるのは『衰退産業なんだ』『やっぱりそうだよね』と・・・
やはり自分が置かれている環境を的確に把握することは大切です(苦笑)

 

 

ここで一つの数字をご紹介します。
日本全国の寝具専門店(いわゆるふとん屋)の売り上げ金額の合計
昭和60年 約4,000億
現在 約300億
30年足らずの間に10分の1以下になっています。
びっくりするような衝撃的な数字です。

 

日本人がふとんを買わなくなった・・・というワケではありません。
ふとんを買う場所が変わったということなのでしょう。

 

『結婚するので新しくふとんを揃えよう』
『寒いのでふとんを買い替えよう』
という時、
どこが頭に浮かびますか?
という話だと思います。

 

これが昭和の時代でしたら、
多くの人たちの頭の中にまず
『ふとん屋』というのが浮かんでいたのだと思います。
そして実際にふとん屋に足を運んでいたのでしょう。

 

ところが今では
『〇mazon』
『楽〇』
『〇トリ』
『イ〇ン』
といったワードを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。


特に最近の若い人からすると、
いかに手軽で安く買えるか・・・が重要なのだと思います。

 

これを誤った風潮・・・などと言うつもりは毛頭ありません。
かの松下幸之助はこう言いました『世間は常に正しい』
そういう認識を持たないと物事を見誤る・・・と。

 

 でもその一方でこうも思います。
『勿体ないなぁ』とも・・・

 

『何が勿体ないか?』に対する答えは

私の名刺の中の一面で端的に表現しているつもりです。

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伝わりましたか?

 

多分これだけでは伝わりきらないかな?

きっとそうでしょう。

モヤモヤ感を残しながら続きは次回に。

(続く)

 

妻のこと、息子のこと その3

しばらく思いつくまま自己紹介を兼ねて身の上話を書いています。『お前の身の上話なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪

 

結婚して13年目にようやく授かった息子に、私たちは『幸佑(こうすけ)』と名付けました。

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『幸』はもちろん、私の名前『克幸』から取ったものです。

 

でもそれだけでなく、
7年前に亡くなった祖父が『和』
父(婿養子)が『昌
私(婿養子)が『克
と、2代続けての婿養子であるにもかかわらず、偶然にも『幸』が連なっており、石川家と『幸』は不思議な縁のある文字です。

 

『佑』は『人をたすける』という意味があり『世のため人のため、役に立つ人間になって欲しい』という願いを込めています。

 

 

照れくさいですが、
私が幸佑を寝かしつける時に、いつも語りかけている言葉をご披露します。

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幸佑くん 幸佑くん パパとママの大事な大事な 宝物の幸佑くん

生まれてきてくれて 本当に ありがとうね

パパもママも 幸佑くんが生まれてきてくれて 本当にせですよ

本当に 本当に ありがとうね

 

幸佑くんは

みんなから待ち望まれ

みんなから愛され

みんなから大事にされ

とっても とっても せな子なんですよ

 

だから 幸佑くん 元気ですくすく育ってね

 

そして みんなから大事にされた分

大きくなったら

周りの人をせにすることの出来る

周りの人を(たす)ることの出来る

立派な人になってくださいね

  

幸佑くん 幸佑くん 大事な大事な 幸佑くん

本当に 本当に ありがとうね

 

 

言葉の意味が伝わっているかどうかは定かではありませんが、

私がこれを語りかけると、

幸佑はいつもおとなしく、じっと聞き入ってくれます。 

私にとっては、満ち足りた幸せな時間です。

 

 

 

 

幸佑はボール遊びが大好き。

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特に大好きなのがサッカー。
親バカと思われるかもしれませんが、1歳半にしてはなかなか上手です。
フォームもよく、ボールの真ん中をちゃんと蹴ります。

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 ドリブルっぽい動きで真っすぐどんどん進んでいきます。

 

 

 

さて

 

そんな幸佑ですが、肩書はウチの子供店長です。

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 見よう見まねで自動ドアのカギの開け閉めにチャレンジ

 

シャレだと思われるかも知れませんが、意外と真面目な話でもあります。

 

幸佑は保育所に行っている時間以外はお店で過ごしています。お客様と触れ合う機会も多く、またわざわざ幸佑に会いに来てくださるお客様も多いです。幸佑が生まれてからウチのお店の雰囲気は以前よりもぐっと良くなったと感じています。

 

子供店長としてお客様から親しんでいただき、可愛がっていただければ、幸佑は将来きっとこの仕事が好きになってくれるはずです・・・なんて言うと打算的ですかね(笑)

 

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将来、幸佑から『お父さんの仕事、格好いいから、僕もやりたい』と言わせてせてみせたいものです。頑張ります♪

 

 

妻のこと、息子のこと その2

しばらく思いつくまま自己紹介を兼ねて身の上話を書いています。『お前の身の上話なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪

 

私たちは結婚して13年間子宝に恵まれませんでした。結果的に足かけ約10年間にわたっていわゆる不妊治療を受けることになりました。

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結婚前初めて香川に来た時に丸亀城にて。今よりずいぶん若いですねぇ。

 

妻にはお姉さんと妹さんがいて、合計5人の甥っ子・姪っ子がいます。わりと近くに住んでいる事もあり、頻繁に我が家に遊びに来たり、泊まったりしていました。子供たちは妻にはもちろんですが、私にもとてもよく懐いてくれました。『こんな可愛い甥っ子、姪っ子がいるので、自分たちには子供はいなくても良いかな。』と思っていた時期もあります。

 

そんな私たちに待望の知らせが届いたのは一昨年の3月7日のことでした。産婦人科に行っている妻から『やぁ(^o^)初めて陽性の判定が出たよ。妊娠したみたいです♡(原文のまま)』というメールが届いた時、私はちょうど昼食中でしたが、思わず涙してしまったことは言うまでもありません。

 

さてそれからというもの、実は・・・

『嬉しさ』や『楽しみ』よりも『何とか母子ともに無事で・・・』という不安の方が上回る日々がやってきました。

そんな私に出来ることといえば妻とお腹の子供を労わることだけ。いつの頃からか、毎晩寝る前に妻のお腹をさすってあげながら、お腹の中のまだ見ぬ我が子に話しかけるということを始め、それが出産までの日課となりました。

 

ちょうどその頃に出会った絵本です。

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最初と最後の部分だけご紹介します。

 

ある森に
とっても仲良しの 2羽の小鳥がいました

 

しばらくすると
しあわせな2羽のあいだには
あかちゃんができ
おかあさん鳥は
たまごを5つうみました

 

(中略)

 

森に しずかな夜がやってきました
ふと 耳をすますと 小さな小さな声が きこえてきます

 

おとうさん おかあさん
ボクたちのこと たくさん思ってくれて ありがとう
ずっと 伝えたかったの
「だいすきだよ」って

 

あかちゃん あかちゃん
わたしたちのところにきてくれて ありがとう
わたしたちも だいすきだよ
あえる日を たのしみにして
おやすみなさい

 

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今こうしてキーボードに打ち込むだけで“うるうる”きますね。
まさに当時の私たちの心情にぴったりの絵本でした☆

 

 

さて、いよいよその日がやってきました。

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出産前日、入院前にお店の前で二人で記念撮影 

 

平成26年11月12日。私は朝から一緒に産科でスタンバイしました。

 

妻からはずっと以前から『立ち会って欲しい』と言われていたのですが『自分には無理』と・・・病室で待つ予定にしていました。でも当日になって決心し、勇気を振り絞って分娩に立会うことにしました。おかげ様で母親の産みの苦しみの一部を共有することができたのは、何物にも代えがたいとても良い経験が出来たと思います。

 

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待ちに待った瞬間は午後5時14分。体重3468gの元気な男の子でした。

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幸佑(こうすけ)と名付けました。

 

(続く)

 

 

 

 

 

妻のこと、息子のこと その1

しばらく思いつくまま自己紹介を兼ねて身の上話を書いています。『お前の身の上話なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪

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妻・石川裕美はカネボウの化粧品研究所に、私の6期後輩として入社してきました。部署が隣(私はポイントメイクアップ、妻はスキンケア)で仕事上の接点はほとんどなく、しばらくは存在を知っているだけの人でした。

 

彼女が入社してきて2年目の夏、共通の知人を介してアウトドアに行くことになり、そこで妻と初めて話をする機会がありました。私はとても人見知りで、相手の性別を問わず、打ち解けるのにかなりの時間を要するたちです。それなのに何故だか妻とはすぐに意気投合(?)し、間もなく付き合う事になり、程なくして結婚を意識するようになりました。

 

そこで妻から実家の西部製綿の事を聞きました。妻は3姉妹の真ん中。3人のうち誰かが後を継がなければならないという環境で育ちました。ちょうど私たちが知り合った頃、お姉さんがお嫁に行った(西部製綿の後を継ぐことができなくなった)ばかりでした。責任感の強い妻は実家のことを真剣に考えていました。その想いを知った私は『よし分かった。』と一言でその件(西部製綿の後を継ぐ)を了承した・・・というのが実際のところです。

 

妻は、私のあまりにあっさり過ぎる態度に『最初は半信半疑だった。』と・・・随分後になって教えてくれました。

 

実際のところカネボウ化粧品研究所の仕事は、やりがいのあるものでした。そして何より職場の人間関係にも恵まれ、仕事にプライベートに何の不満もない楽しい生活を送っていました。理屈で考えたらそのままカネボウに残った方が良いに決まっています。でもその一方で『自分の人生このままで良いのかな?』という想いは心の中でくすぶっていたのもまた事実です。『新しいチャレンジも良いかな?』と思いました。

 

それと、もし西部製綿という会社がダメになったとして、無一文になったとして、いわゆる四畳半一間の生活になったとしても(自分で会社を経営する立場になるということは、そういったリスクも考えないといけないと思うのですが)

『もし無一文になっても、この人と一緒なら幸せに暮らしていけるだろう。』と心底思えました。
そう考えたら怖れるものは何もなかったです。すっぱりと前向きに『婿養子として西部製綿を手伝う』と決断が出来ました。

 

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 私たちは平成13年の4月に結婚し、そのまま2年間カネボウ化粧品研究所に勤め、平成15年の7月に退社し、8月に西部製綿に入社しました。

 

 

妻のキャラクターがよく分かる一つのエピソードをご紹介します。

 

結婚して間もなくのこと。私たちはサッカーの国際大会『日本VSサウジアラビア』の試合を観戦していました。ちなみに私は大のサッカーファン。妻はサッカーに極めて無関心。なのにその日は妻も私と一緒になって一つ一つのプレーに『ワー』とか『ヨッシャ』とか歓声を上げながら真剣に見ている様子。私も内心『これで妻もサッカーに関心を持ってくれたかな』と思っていた矢先。前半15分くらいだったでしょうか。妻がこう質問してきました。

 

『ねぇねぇ、ところでどっちのチームを応援してるの?』

 

日本とサウジアラビアのどちらを応援しているか?なんてサッカーのことを知っているとか、関心があるとかとは全く次元の違った話ですよね。

 

そうなんです妻は天然ボケなのです。

 

天然ボケにして、おっとり暢気。しかし根はとてもしっかりしている。そして常にプラス思考。そして何より家族思い。慣れない環境で仕事をしている私を、決して出しゃばることはなく、でも私が突っ走りすぎた場合には上手くブレーキを掛けてくれ、常に日に陰にサポートしてくれました。

 

わりと感情の起伏の激しい私に対して、いつものんびり動じない妻。嫌な事があってカリカリしている私の横で、まるで春風に吹かれているように平然としています。そんな妻がいたからこそ、私はこうして見知らぬ香川で13年間もふとん屋を続けることができたのだと思っています。

 

(続く) 

 

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』への道 パート5

しばらく思いつくまま自己紹介を書いています。『お前の自己紹介なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪

 

さて平成15年の8月1日にそれまで勤めていたカネボウ化粧品を辞めて、西部製綿に入社した私。全くのドシロウトで、何も出来ることの無い自分に困惑しながら、8月の終わり頃、その時の想いを文章にするべくパソコンに向かったところまで前回お話ししました。

 

そして完成したのがこれです。
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 皆さんこんにちは。今年の8月より西部製綿の仕事を手伝っている石川克幸と申します。皆様に“布団”のことを、そしてわが“西部製綿”のことをより理解していただければと考え、このたび“西部通信”を創刊しました。ぜひご一読下さい。

 

という書き出しで始まるA4サイズ4ページのニュースレターです。
『西部通信 2003年秋号-創刊号-』と名付けました。

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 ・サラリーマンの家庭で生まれ、サラリーマンとして生活していた私は、それまで寝具に全く何の関心もなかったこと。
・そんな私の結婚相手がたまたまふとん屋の娘であったこと。
・妻の嫁入りふとんで寝た時に『ふとんってこんなに気持ちいんだぁ』と感動したこと。
・縁あってこのたびサラリーマンを辞め、妻の実家のふとん屋の仕事を手伝うようになったこと。
・ふとん屋として、全く何の知識も経験もないけど、頑張って皆様にふとんと眠りの重要性をお伝えしていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願いします。
ということを書いてみました。

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 これを他の家族たちに見せたところ
『克ちゃん、なかなかえぇことを書いとる。』
『こりゃ、お客さんのところに送ったほうがえぇ。』
という話になりました。

 

ちょうど秋に『創業祭』を予定していたこともあり、そのチラシまで私が作ることになりました。全くのドシロウトながら印刷屋さんといろいろ打ち合わせを行いチラシを作り上げ、先ほどの西部通信と一緒にお送りしてみました。

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私のチラシデビュー作です。 ちなみに、後になっていろいろな人からこう聞かれるようになりました。『石川さんはカネボウの時から、チラシとかニュースレターとか、販促物を作っていたのですか?』と・・・。でも実際のところカネボウではそういった機会は皆無でして、この時が掛け値なしのデビュー作です。

 

 

さて創業祭です。大勢のお客様がご来店くださり

『良い後継ぎが出来ておめでとう。』
『意気込みが伝わってきました。』
『頑張ってね。応援しています。』


とのお声をたくさん頂戴しました。
中には『来店できないから』と、西部通信を読んだ感想をわざわざお手紙で送ってくださった方もいらっしゃいました。

これは当時の私にとっては本当に嬉しい出来事でした。

 

それにしてもこの時作ったニュースレターを、今になって見返してみると、書いてある内容は稚拙ですし、遊び心もひねりも全くない直球一本勝負の文章です。しかしながらその時の私の想いやスタンスを過不足なく表現できていると思います。

 

当時右も左も全く分からないドシロウトであった私が、あのような内容をお客様に対して表現したこと、そしてなおかつその後の13年間、愚直なまでにぶれることなく同じスタイルを貫き、そして継続し、少しずつ上達してきたことを、自分では誇りに思っています。

 

ちなみに、いろいろな方から『どうやったらニュースレターとかダイレクトメールを作るのが上手くなりますか?』というご質問をよく受けます。

 

その時、私はこうお答えするようにしています。
『まずは始めること』
『そして続けること』
『続けながら改善すること』
『そして楽しむこと』
『私は13年間楽しみながら続けてきました』と・・・

 

(続く)

 

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』への道 パート4

しばらく思いつくまま自己紹介を書いています。『お前の自己紹介なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪

 

私がカネボウを退社し、妻の実家である西部製綿に入社したのが平成15年8月1日のことです。併せてこの時苗字を藤本から石川に変えました。当時私は35歳でした。

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入社当初、私たち引っ越しましたハガキ用に店内で撮った写真。肩に力が入っているのか表情が硬いですね(苦笑)

 

苗字、仕事、肩書、人間関係、それまでの35年間を全てリセットして、妻という存在だけを寄る辺に、香川でまったく新しい人生を始めたことになります。
・化粧品研究員からふとん屋の後継者への華麗なる転進
・男気を出して人生ゼロからの再スタート
・・・と言えば恰好は良いのですが、いざ西部製綿に入社してみると自分の置かれた環境の厳しさを思い知ることになります。

 

まずは(小売)店舗。8月1日の入社ですからまさに真夏です。当時の店長だった義母はこう言っていました『ふとん屋は寒い冬の商売。売れない夏は何もせずにじっとしておくに限る。』実際その言葉の通りで、店舗はほとんど開店休業のような状態でした。もともと当社は西部製綿という名前の通り、『綿』や『綿ふとん』の製造・卸の会社でした。ですから店舗に関しては義母が一人で切り盛りしている状況で、会社の中で店舗はとても中途半端な状態にありました。

 

一方(当時、当社の事業の柱であった)製造・卸の部門。入社早々、当時社長だった義父に連れられて、今日は愛媛方面、今日は徳島方面と日にちを分けて、お得意先回りに出かけました。正直ショックを受けました。行くところ行くところ、元気のないお店(ふとん屋)が多かったです。もちろん私は店主たちと義父の会話を聞いているだけでしたが、共通して出てくるキーワードは『暇』『昔は良かった』。この景色を見るだけで将来にに明るい展望を描きにくい状況であることは明白でした。

 

そんな中、義父の都合が悪く、初めての得意先に一人で訪問した時のことです。そこで先方の店主から小僧扱いを受けました。考えてみれば当たり前のことなんです。私はふとんのこと、製造のこと、コストのこと、納期のこと、全く何も知らないので、何を聞かれても答えられないのですから。先方の店主は『もうえぇから、そのお茶飲み終わったら、帰ってくれるか。』と言い捨ててその場を去ってしまいました。

 

それまで35年間藤本克幸として生きてきて、なおかつ11年間カネボウの化粧品研究員として仕事をやってきて、それなりにプライドを持って生きてきたことなど、どこかに吹き飛んでしまいました。そしてこの時『肩書なんて、それが通用しない場所では全く意味がない。』ということを“痛感”しました。まさに“痛”でした。

 

そんな私に義父から与えられる仕事と言えば、工場に入っての製造作業、荷造り、配達といった内容。しかしながら私は入社早々に、私なりの判断で、自分の土俵は『工場』でなく『店舗』だと決めていました。しかしながらその時点の自分には、店舗の活性化に対して出来ることが何もなかったです。『販売』の経験と言えば、学生時代に1年間コンビニエンスストアのアルバイトをしただけ。おまけに『寝具』や『眠り』に関する知識も皆無。

 

『このままじっとしていたらヤバいなぁ。』
『自分は何のためにここに来たん?』
『何とかせんといかんなぁ。』
と危機感だけが芽生えてきました。

 

8月の終わり頃、私はパソコンに向かっていました。

 

その時の私に出来る唯一の事、それが文章を書くことだったから。誰かに伝える明確なメッセージを持っていたワケではありませんが、その時の私の率直な気持ちを文章にしてみようと思ったんです。 

(続く)

自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』への道 パート3

典型的なダメ社員だった私

しばらく思いつくまま自己紹介を書いています。『お前の自己紹介なんかに興味はない。』と言われそうですが(苦笑)もし多少なりともご興味がおありでしたらお付き合いくださいませ♪  

 

今回もサラリーマン時代の話です。

 

私が就職したのは神奈川県の小田原市にある『カネボウ化粧品研究所』です。そこで私は11年間『メイクアップ化粧品』の開発に携わりました。具体的には『水』と『油』と『粉』を混ぜて使い心地や発色の良い『口紅』や『マスカラ』の中身を開発する仕事です。自分の試作品の出来栄えを評価するために、自分で塗るというマニアックな作業もしました。

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入社したばかりの私は仕事もろくに出来ないくせに、プライドばかり高くて自信過剰で生意気という、世間知らずの若造にありがちな典型的なダメ社員でした。当然のごとく入社後間もなく先輩方から目をつけられるハメとなりました。

 

そんな私に対して、直属の上司であったSさんは基本的には優しく接してくれましたが、先ほど述べたようなダメ社員でしたから、厳しいこともたくさん言われ、時には私のプライドをずたずたにするほどの説教をくらったこともあります。

 

Sさんは職人気質の気難しい人でしたが、化粧品開発の神様ともいうべき恐ろしく仕事の出来る人でした。Sさんの仕事に対する哲学は独特で

・プロなんだから結果が全て

・でも仕事人間になるな

・残業するのは能力のない人間がすること

・時間外に仕事をするくらいなら自分の趣味に時間を使え

・上司には一切おべんちゃらを言わず思ったままのことを言う

・それを周囲に完全に認めさせてマイペースを貫く

といった風で、研究職という特殊性の高い仕事ならではのスタンスでした。毒にも薬にもなるタイプの人で、まさにプロフェッショナルでした。

 

私を変えたSさんの一言

 

Sさんからは仕事のこと、生き方のこと、いろいろな事を教えてもらいました。中にはその時には本当の意味が理解できなかったけど、最近になって『なるほど。あの時のSさんの言葉はそういう意味だったんだ。』と・・・ようやく気付いたような事もあります。

 

Sさんの教えの中で私に最も影響を与えたのが、

『何をやっても60点の平均的な人間になるな。』というもの。

『他のことは30点、40点でもいいから、何か一つ100点満点の人に認められる特技を持て。』

『とにかく何でも良いからナンバーワンになれ。』

『それを周囲に認めさせろ。そうすると自ずと仕事が出来るようになる。』というのです。

 

さて『ナンバーワン』と言われても、口紅を作ろうが、アイシャドウを作ろうが、あるいは化粧品原料や特許の知識に関しても、おいそれと先輩方に勝てるはずはありません。そこで私が目を付けたのが、ウソみたいでバカみたいな話ですが『飲み会の幹事』でした。

 

もう一度繰り返します。

私がナンバーワンを目指したのは『飲み会の幹事』です。

 

私が所属していた職場は、アットホームな雰囲気で、何か事あるごとに飲み会の行われる、飲み会を重視する職場でした。そういった職場ならではの話ではありますが、ある飲み会の幹事が当たった時に、

・気の利いたお店を選ぶ

・メニューにこだわる

・先輩方のお酒の好みをインプットしておいて、タイミングよく先回りしてオーダーする

・余興で面白いゲームを企画する

といった部分を、徹底的に“超”全力投入でやってみたんです。

 

そうしたところ、面白いことに一晩にして私に対する先輩方の評価がまるっきり変わったんです。

それまでは

『仕事も出来ないくせに生意気なやつ』

だったのが

『生意気だけど気の利く、なかなか見どころのあるやつ』

という風に。

 

それからというもの『飲み会の幹事やイベント事を企画するのなら藤本(私の旧姓)に任せとけば間違いない』という評価をもらうようになりました。そしてさらには自分で勝手に幹事に立候補して、飲み会を企画して、周りを巻き込むという事をどんどんとやるようになりました。

 

面白いもので『飲み会の幹事』で認められてからというもの、本業の方も随分と仕事がしやすくなり、また少しずつですが仕事ぶりが認められるようになってゆきました。

 

自分の土俵を築くことの重要性

 

この辺りのモノの見方、考え方、すなわち

 

自分の個性や周囲の状況をよく理解した上で

自分の土俵をどこに作るか

どこに自分の存在意義を見出すか

 

という部分は、Sさんのアドバイスをもとに、飲み会の幹事でナンバーワンを目指すという、バカっぽいチャレンジから学ばせてもらったことです。

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 暗くて映りが悪いですが、職場の私の送別会の時の写真です。とても懐かしいですね。

 

続く